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「渋谷区広尾 第2回」憧憬のエレガントさが漂う、国際色豊かな高級住宅街

武家屋敷の由緒を各国の大使館へと継承<歴史>

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江戸時代の初期までは、広尾周辺には原野が広がっていました。特にツクシが群生していたことから「土筆ヶ原(つくしがはら)」と呼ばれていましたが、その後「広野」となり、やがて「広尾原」と呼ばれるようになったといわれています。これが広尾の語源にもなりました(諸説あります)。なお住居表示が実施されるまで、広尾は現在の港区麻布と渋谷区にまたがる広域地名でした。当時の広尾原は、気軽に散策して草摘みや虫狩りなどが楽しめる行楽地として庶民に親しまれていました。一面にススキが広がる当時の野原で庶民が草摘みを楽しむ様子が、江戸名所図会の挿絵として描かれています。その一方で、将軍が鷹狩りを行う場所としても利用されており、三代将軍家光、八代将軍吉宗も訪れていたという記録が残っています。

 

江戸時代中期以降、広尾周辺(主に港区麻布界隈)には大名屋敷・武家屋敷が多く建ち並ぶようになりました。現在の「木下坂」がかつて足守藩主木下家の屋敷があったことから、また「南部坂」がかつて盛岡城主南部家の屋敷があったことから名付けられたように、この辺りには当時の屋敷の名が付いた坂があります。

 

江戸時代末期、鎖国が終わるとともに元麻布善福寺にアメリカ公使館が設置されると、明治維新後は、多くの屋敷跡地に諸外国の大使館が置かれるようになりました。江戸の中心にも横浜港にも近く、欧米人にとっては苦手な湿気が避けられる高台であったこと、広い敷地を確保できたため諸国の大使館を近隣にまとめることで警備がしやすいなど、様々な条件が整っていたことが、この場所に多くの大使館が置かれた理由のようです。

 

また、一部の大名屋敷の庭園は公園や緑地として開放されました。有栖川宮邸の御用地だった「有栖川宮記念公園」も、かつては盛岡南部藩の下屋敷として使われていました。

こうした武家屋敷の歴史が、今日の広尾界隈に漂う気品と、インターナショナルな装いのルーツになっているようです。

 

 

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