アセットコラム

ホーム > アセットコラム > おすすめエリア > 「自由が丘 第2回」もしかしたら違う名前だったかもしれない!?人気スポット「自由が丘」の秘密。

アセットコラム

おすすめエリア

「自由が丘 第2回」もしかしたら違う名前だったかもしれない!?人気スポット「自由が丘」の秘密。

かつての田園に誕生した「九品仏前」駅こそが、いまの「自由が丘」駅

 

 

目黒区が成立する以前、自由が丘の地は「荏原郡碑衾町大字衾字谷畑中」と呼ばれ、主に農村が広がっていました。「碑衾町(ひぶすままち)」というのは、「碑文谷(ひもんや)」と「衾(ふすま)」という2つの地域を合わせた名前ですが、そもそもなぜ碑文谷や衾と呼ばれていたのかについては諸説あり、確かなことは分かっていません。

 

東急東横線が開通する以前は竹やぶもあり、熊野神社には当時の竹やぶの一部が残されています。

田畑が広がるだけだったこの地域が発展するきっかけとなったのが、1927(昭和2)年の東京横浜電鉄東横線(現:東急東横線)の開通です。このとき誕生した駅の名前は「九品仏前(くほんぶつまえ)」駅でした。九品仏という名前は、近くにあった「九品仏浄真寺」境内に安置されていた9体の阿弥陀如来像に由来しています。話はやや脱線しますが、この九品というのは仏教における極楽往生の考え方で、今では一般的に使われている「上品」や「下品」という言葉も、この九品に由来しています。

 

「九品仏前」駅が誕生すると、田園地帯に商店や住宅が建ち始め、同年11月には、大根畑の丘の上に、私立の学園も建設されました。それこそが、現在の自由が丘の地名の発端でもある「自由ヶ丘学園」です。同学園は、自由教育を旗印に手塚岸衛氏が設立しました。本来は「自由学園」という校名を考えていたそうですが、すでにほかの地域に同名の学校があったため断念。現地が小高い丘だったことから「自由ヶ丘」と命名したそうです。

「九品仏前」駅の開業から2年後の1929(昭和4)年。目黒蒲田電鉄(現:東急大井町線)が開通し、さらに「九品山浄真寺」に近い場所に「九品仏」駅が誕生することとなったため、「九品仏前」駅の名称を改称することになりました。改称後の名称は当時の地名から「衾」駅が内定していたそうです。しかし新駅名採用にあたって、舞踊家石井漠氏をはじめとする先駆移住の文化人たちが熱心な要望活動を行ったことで、自由ヶ丘学園の名前から「自由ヶ丘」駅という名称になりました。

 

それからというもの、駅周辺に移住してきた人たちは、郵便物などに自らの住所を「自由ヶ丘駅前0番地」と書くようになったことで、「自由ヶ丘」は徐々に地名として定着。1932(昭和7)年6月には碑衾町が大字衾字谷畑中をはじめとする地域の7字を統廃合して、「大字自由ヶ丘」を新設。同年10月には目黒区が成立し、「目黒区自由ヶ丘」が誕生。耕地整理組合の努力もあり、町名として正式に認可されることとなりました。

 

それから後の1965(昭和40)年の住居表示施行時には「自由が丘」となり、翌年には駅名も「自由が丘」に改称されています。

「自由ヶ丘」駅の誕生後は、多くの文化人や芸術家が集まるようになりました。周辺は「自由が丘文化村」と呼ばれ、高級感あふれる住宅地として注目を集めるようになります。

さらに第二次世界大戦後の復興の際には、駅前広場を設置。1963(昭和38)年には当時自由が丘にあった12の商店街が団結して「自由が丘商店街振興組合」が設立され、活気のある街へと成長を遂げることになりました。

現在の自由が丘のイメージをつくっている「自由が丘女神まつり」「自由が丘Sweets Fest」「マリ・クレール フェスティバル」などのイベントも、すべて自由が丘商店街振興組合の運営によるものです。

自由が丘ハイタウン

八雲スカイハイツ

日商岩井田園調布マンション405号室

日商岩井田園調布マンション203号室

自由が丘第一マンション

一覧へ戻る

アセットコラムアーカイブ