「新宿区神楽坂 第2回」江戸の情緒や文化を継承し、フランスのエスプリも漂う魅惑のスポット
新宿区において、特に古い歴史を有する神楽坂<歴史>
かつて神楽坂は、牛込区にありました。昭和22年に牛込区、淀橋区、四谷区の3区が合併して誕生したのが新宿区です。この3区の中で、最も歴史が古いのが神楽坂のある牛込区でした。
そんな神楽坂の歴史は、14世紀にまで遡ることができます。当時、群馬県赤城山の麓で勢力を誇っていた豪族大胡氏が北条家の家臣として南関東に移り住み、現在の光照寺周辺の高台に牛込城を築きました。これが、神楽坂発展のはじまりです。後に大胡氏の一族は牛込氏と改めますが、北条氏滅亡によって徳川家康に従うこととなり、このときに牛込城は廃城となりました。
江戸時代になると、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領し、坂下にある江戸城の外壕である牛込見附との間におよそ1キロにおよぶ大老登城道が造られました。武家屋敷が並ぶこの沿道は、ほぼ現在の「神楽坂通り」と一致します。また、この頃には既に神楽坂という地名で呼ばれていたとされています。ただしその由来については、「若宮八幡神社の神楽の音が、この坂まで聞こえてきたから」とする説、「津久戸明神が牛込の地に移転したとき、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏することで上ることができたから」とする説など、諸説あります。
江戸中期には、神楽坂の中央に位置する毘沙門天善國寺への参詣客で大いに賑わうこととなります。毘沙門天善國寺の「寅の日」、出世稲荷の「午の日」などといった縁日や赤城神社の賑わいとともに、江戸文化を謳歌する代表的な街に発展しました。
明治になると武家屋敷は撤去され、神楽坂は町人の街として発展していきました。花柳界が発足したのもこの頃です。このときの路地などの街割りは、現在でもほぼそのまま残されています。
明治28年には、甲武鉄道牛込停車場(現在の飯田橋駅)が開設。これを機に神楽坂は商店街や住宅街として急速に発展し、“山の手銀座”とも呼ばれる東京随一の繁華街へと変貌を遂げました。
昭和に入ると花柳界は最盛期を迎え、新旧2つの見番に芸者置屋が数多く軒を連ねるほどに盛況します。昭和30年代後半にも、高度成長期を背景に第2の隆盛期を迎え、社用族や政治家といった人たちが、料亭を利用するなど花柳界での活発な活動を行なっていました。
そして今もなお、古典芸能や花柳界の文化は脈々と受け継がれ、伝統の中に粋な江戸の面影を垣間見ることができます。
また神楽坂には、文学・文芸とのつながりが深いという歴史もあります。明治時代から尾崎紅葉や坪内逍遥らがこの地を舞台に活躍。夏目漱石を中心とした文士たちの交流も盛んに行われていました。