「八王子鑓水 第2回」雄大な自然と開発の恩恵に恵まれた、心地良い環境
日本のシルクロードの中継地として発展<歴史>
この辺りが、「鑓水」という耳慣れない地名となったのはなぜでしょうか。調べてみると、付近を水源とする大栗川に関係しているそうです。大栗川は多摩川水系の一級河川で、この川が流れる聖蹟桜ヶ丘駅付近の街並は、アニメ映画「耳をすませば」のモデルにもなっています。鑓水はこの大栗川の源流部に位置し、湧き水がとても豊富でした。一帯には岩盤の層があり、山の中腹に向けて先の尖った道具で突くと地下水が湧き出てきたとのこと。この方法で飲料水を確保することを「遣り水」と言っていたため、これが地名の由来になったそうです。
鑓水の地は、かつて「絹の道」の中継地として栄えた歴史的に非常に重要な地域でした。幕末期から明治初期まで、八王子から横浜に輸出用生糸を運んでいた道が、絹の道です。当時の鑓水は、この生糸の積み出しに活躍した鑓水商人たちの根拠地としてとても繁栄し、その賑わいは、「江戸鑓水」と称されるほどだったようです。
絹の道の始まりは、安政6(1859)年の横浜港開港がきっかけでした。開港によって外国との貿易が始まりましたが、輸出品の中心となったのが生糸だったそうです。当時の生糸は、主に上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などでつくられていましたが、その多くが八王子に集められ、絹の道(当時の名称は、浜街道)を通って横浜に運ばれていました。もともと八王子は養蚕が盛んであり、養蚕地帯の中でも江戸と横浜双方に近いという地理的条件に恵まれていたため、輸出用の生糸が八王子に集められていたようです。当時は鉄道のような交通機関もなく、もちろん自動車もありません。そのため、生糸は主に肩に背負って歩くか、荷車に積んだり、牛馬で運んだりしていたようです。現在でも絹の道は凸凹の目立つ箇所が多く、当時の往来がいかに大変だったかをうかがい知ることができます。
やがて、明治22(1889)年の甲武鉄道(現在の中央線)や、明治41(1908)年の横浜鉄道(現在の横浜線)などといった鉄道が次々に開通すると、絹の道はその役割を終えることとなりました。「絹の道」という名称はその後、昭和20年代に地域の研究者らによって名付けられ、後に八王子市の指定史跡となりました。現在、こうした絹の道の歴史は、「絹の道資料館」にて触れることができます。この資料館は、絹の道散策の休憩スポットにもなっています。
現在、大塚山に保全されながら当時の面影を維持し続ける絹の道。その周辺には、他にも神社仏閣など見どころがたくさんあります。当時の商人の往来に思いを馳せながら、自分の足で辿ってみるのも良いでしょう。
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