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「港区白金 第2回」セレブだけど庶民的?知っているようで知らない港区白金

諸大名、皇族や華族に愛されてきた品格の街<歴史>

 

 

白金という地名の由来は、室町時代まで遡ることになります。

応永年間(1394〜1427年)にこの地を開墾して村を開いた豪族、柳下上総介(やぎしたかずさのすけ)が大量の銀(しろかね)を所有していたことから、銀長者と呼ばれ、それがやがて白金長者となり、白金がそのまま地名になったとされています。

この柳下上総介の住まいがあったとされているのが、現在の白金台五丁目にある国立自然教育園のあたり。園内には今なお、周囲を囲むように、外敵から屋敷を守るための土塁が残されています。このうちの高台にあたる地域が、現在の白金台です。

 

江戸時代初期、白金村は豊島郡と荏原郡の境界にあり、所属となる区画が定まらないまま、共同で耕作するための入会地とされていました。原野が広がっていたため、白金原とも呼ばれていたそうです。

やがて現在の自然教育園のあたりは徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷に、現在の白金台一丁目にある結婚式場の八芳園のあたりは薩摩藩や島津藩の下屋敷になるなど、高台は大名の下屋敷として利用されるようになりました。

 

明治に入ると、白金村は東京府へ編入。武家地跡に白金下三光町、白金上三光町、芝白金丹波町などが起立しました。

1878(明治11)年には芝区に所属し、1891(明治24)年に芝白金三光町が誕生。1947(昭和22)年に、芝区が赤坂区・麻布区と合併して港区が成立したことにより、芝の冠称を除き白金三光町となります。やがて新住居表示が定められ、現在の港区高輪、港区白金、港区白金台などが誕生しました。

 

明治の半ばまでは、周囲一帯は原野や田畑が多かったようですが、明治末期より住宅や商店、工場などが建てられるようになりました。

このとき、丁目が奇数である白金一丁目・三丁目・五丁目は主に中小の工場が、偶数である白金二丁目・四丁目・六丁目は主に住宅が建てられる傾向にありました。奇数丁目と偶数丁目における景観の相違は、今でも感じ取ることができます。

またこの頃には、皇族や華族、旧財閥系の人々や政財界の大物たちがこの街の新たな住人になりました。

 

こうして発展を遂げてきた白金エリアですが、実はつい最近までこの街には鉄道・地下鉄がありませんでした。この街に初めて駅が誕生したのは、なんと2000(平成12)年のこと。南北線の全線開通というタイミングに合わせ、「白金高輪」駅と「白金台」駅が開業されました。

白金全体に漂う、静かでおっとりとした雰囲気は、こうした交通網の整備が遅かったことも一つの要因だといえます。

長い間、電車を利用しないエグゼクティブを対象としたマンションや店舗が建ち、反対に、繁華街に見られるような賑やかな施設が建つことはありませんでした。

そしてバブル景気後半には、お洒落なレストランやカフェ、高級マンションが建ち、ここに暮らす女性たちをマスコミがシロガネーゼとして取り上げるようになったのです。

プラウドタワー白金台

パルテール白金

パレステュディオ白金台

パセオ三光坂

菱和パレス白金台

朝日エンブレム白金台406号室

朝日エンブレム白金台701号室

白金台ローヤルコーポ

第2白金ハウス

白金台桜苑マンション

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