「城南五山 池田山 第2回」高級住宅街の美しき庭園に、霊峰富士のパワーが宿る。
備前岡山藩主、池田家の壮大な敷地に由来する高台。
池田山は、1670(寛文10)年に岡山藩主であった池田家が下屋敷を構えたことが名称の由来です。広大な敷地にはカモ場もあり、遠くに富士山を望むことができたとも言われています。その屋敷は大崎村にあったことから「大崎屋敷」とも呼ばれていました。
池田家が江戸に構えていた屋敷はもともと別の場所にありましたが、過去2度の大火によって焼失。そののちの候補地として選定されたのが大崎村でした。当時はまだ田園風景が広がるエリアでしたが、高台であったことが大きな決め手となりました。高い場所であるほうが、守りやすく攻めにくいという特徴があるためです。
幕府から大崎村の拝領を認められると同時に、この地の1万5800坪あまりを抱屋敷として購入。隣接する1万1500坪あまりを拝領屋敷として下賜され、1670(寛文10)年には合わせて2万7300坪ほどの広大な下屋敷を構えました。さらにその後も隣接する百姓地や武家地を購入し、次々と敷地の拡張を図ります。40年近くにわたって手に入れた下屋敷の広さは、3万7600坪もの壮大な規模になりました。
当時の大崎屋敷の敷地の南側は谷が入り込んでおり、谷の奥にある大きな池を中心として庭園を作りました。また、比較的低いところには家臣の長屋などが建ち、屋敷の周辺は主に林や畑で囲まれていました。敷地内の最も高い南端の高台からは眼下に目黒川を望むことができたため、ここに茶屋を設けて客人をもてなすこともあったようです。
明治以降も、敷地の多くの部分を池田公爵邸として使用していましたが、大正時代の終わり頃より住宅分譲地として売り出されていくこととなりました。
池田山エリアの名所として知られる池田山公園は、この大崎屋敷の奥庭部分であるとされる日本庭園になります。東京電力社長邸だったこの土地を、のちに品川区が庭園保護のために購入し、区立公園として整備・開園しました。
一方、最寄り駅である五反田は、東西に流れる目黒川流域に沿って平地が南北にしか開けていなかったため、耕作地として恵まれなかったという歴史があります。
そのため、たった「五反しか水田が無い」ということから、五反田と呼ばれていました。
その名称も江戸時代には大崎村の小字でしかなく、周辺にしか知られていませんでした。その五反田が現在のように歓楽街として発展を遂げるのは、1911(明治44)年に山手線「五反田」駅が開業してからのこととなります。