「中目黒 第2回」センスよく快適さが開花された、目黒区の中心。
原始より人類が営みを続けてきた土地
中目黒を含む目黒区一帯には、およそ1万6〜7千年前の旧石器時代から、すでに人類が暮らしていたようです。中目黒の西には都内三大貝塚の一つと呼ばれた東山貝塚があり、旧石器時代の礫(れき)や、縄文時代の住居跡などが発見されています。弥生時代になると、多くの土地には武蔵野の原野が広がっていたようですが、目黒川と蛇崩川の合流点付近では水田が作られ、近くの高台が住居に適した土地となりました。
やがて大化の改新から奈良時代にかけて、現在の目黒区付近は武蔵の国21郡のうちの荏原郡に属することとなります。
ところで気になるのが、目黒という地名です。その起源をたどると、鎌倉時代まで遡ることができます。鎌倉幕府の公的記録をつづった「吾妻鏡」には、建久元年(1190年)11月の条に、武蔵武士目黒彌五郎の名前が頼朝上洛の際の後陣随兵として記されていました。しかしこの目黒という名の由来には諸説あり、残念ながら真偽は明らかになっていません。その諸説の一部を紹介しましょう。
1)馬畔説
めぐろの「め」は駿馬の「め」。「くろ」は畔道(あぜみち)の畔を意味。つまり、馬と畔道を意味する馬畔(めぐろ)という音から生まれたという説。
2)地形説
「め」は窪地や谷を、「くろ」は嶺を意味。目黒川と谷を囲む丘陵地帯から、地形を表す「め」と「くろ」という音が結合して地名になったという説。
3)馬の毛色説
黒色の馬のことを驪「くろ」と書き、「め」は愛でる・優れているという意味。かつてこの地に馬の牧場があり、優れた黒馬がたくさんいたため、愛驪(めぐろ)が目黒に転化したという説。
4)目黒不動説
目黒、目白、目赤、目黄、目青の五色の不動尊が実在し、この地にある龍泉寺が通称「目黒不動」と呼ばれていることから、目黒という地名が生まれたという説。
江戸時代になると、中目黒周辺には武家屋敷が設けられ、これらの屋敷は明治以降、富裕層の邸宅として使われるようになりました。中目黒から代官山へと続く坂道周辺には、「西郷山公園」や「菅刈公園」、「朝倉邸庭園」など、今もなお当時の面影を残す場所があります。
明治期になると、現在の目黒区を含む一帯は、武蔵県、品川県、東京府といった管轄となりました。そして荏原郡三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が荏原郡目黒村になり、後に荏原郡目黒町となりました。1932(昭和7)年には、当時の目黒町と、現在の目黒区の南部に位置していた碑衾町が合併して東京市に編入され、目黒区が誕生しています。
なお、「中目黒」駅は、目黒区が生まれる以前、1927(昭和2)年に開業しています。開業当時、駅南東側の山手通りと駒沢寄りの交差点に玉川電気鉄道の中目黒終点があり、その連絡駅ということで、「中目黒」駅と名付けられました。
このとき東急東横線が開通し、さらに1964(昭和39)年には日比谷線が乗り入れるようになったことで、中目黒は利便性の高い住宅地として発展。2003(平成15)年には駅前に目黒区総合庁舎が移転してきたことで、目黒区の行政の中心地域になりました。