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「東雲 第2回」海に囲まれた穏やかさと近代的な利便性で人気を誇る、湾岸エリアの一画。

大正時代の埋め立てに始まり、今なお発展が止まらない街

 

 

湾岸エリアといえば、その多くが埋め立てによって開拓された土地だというのは、皆さんご存知かもしれません。中でも東雲は大正時代から埋め立てが始まっているため、比較的長い歴史があります。

そもそも、東京湾付近はそのほとんどが埋立地で、現在の「東京」駅がある丸の内や八重洲方面まで、かつては海が広がっていました。

 

東京湾の埋め立ての歴史は江戸時代にまで遡ることができます。江戸が経済の中心地となると、人口が爆発的に増加。その対策として江戸幕府は、江戸城の築城工事に伴う堀の堀削土を利用して、まずは丸の内・八重洲を埋め立てたのです。

その後、1923(大正12)年の関東大震災の瓦礫処理のため、有明や、現在の東雲の一部を含む豊洲が埋め立てられました。このエリアは、1980年代後半までは主に工業地として使われることとなります。

 

1938(昭和13)年、豊洲五丁目の東南付近を東雲一丁目・二丁目とし、さらに新たに埋め立てられた土地を東雲三丁目(現二丁目)と名付けました。

なお、この東雲という名前は、東京府港湾局が公募し、決定されました。東の空という意味のある当て字ですが、語源は、「篠(しの)の目」とされています。

古代の住居では、明かり取りの役目をしていた網目の部分を「目」と称し、主にその材料として篠竹が使われていたため、「篠の目」と呼んでいました。やがて「篠の目」は明かり取りそのものを称するようになり、転じて、夜明けを「しののめ」と呼ぶようになったそうです。そしてこの「しののめ」が、街の名前に選ばれた背景には、「東京湾の東 朝日を浴びて空けて行く空のように 東京湾の発展を表す曙の地」となるように、という願いがあったそうです。

長らく工業地として利用されていた東雲エリアですが、1980年代後半に転機が訪れます。工業施設を横浜方面に集約させ、新しい街をつくる豊洲開発事業が立ち上がったのです。その結果、東雲エリアはUR(都市再生機構)と民間企業が協力して開発を行い、「東雲キャナルコートCODAN」を始め、豊洲・東雲エリアには大規模なタワーマンションが次々と誕生しました。

 

そして2006(平成18)年に「アーバンドックららぽーと豊洲」がオープンすると、エリアのイメージも高まり、街の人気は急上昇。住みたい街の上位にランクインするまでになりました。それ以降も、お洒落な街のイメージは継承されています。

なお、今現在も東雲では複数の地区計画が進行中(「東雲一丁目地区地区計画」「東雲二丁目南地区地区計画」「東雲地区地区計画(再開発等促進区)」)です。ますます発展する街のポテンシャルに期待が高まります。

パークタワー東雲3202号室 取得しました 現在室内工事中

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